昭和41年04月13日 夜の御理解



 不浄汚れはわが心で祓う事もあり、犯す事もあり。例えば同じ事柄を自分の心一つでそれが不浄になる。不浄になると言う事は、お道で言う不浄というのは、適わない事成就しない事と仰ってございますから、大変な事なんです。ですから自分のその心で例えば不祥事と言った様な事でも、その不浄と思う様な事でも、自分の心で犯す事もあり、祓う事もあると言うんですから、その不浄の心を祓うと言う事は、どんなに例えばお祓いならお祓いをして貰えば、その不浄が祓われて言った様なものではない。
 自分の心で、犯す事もある祓う事もあると仰せられるのですから。しかもそれが、おかげを受けるか受けないかと言う事に、つながるんですから大変な事でしょうが。ね。ほんとに、ここんところをですね、自分の心の中に、はっきりこの頂かせてもらう。例えて申しますなら、今日は秋永先生が、昨日月次祭ですからまあ皆で、お祭り奉仕さて頂いて、ご祈念中、どこでかそのう猫がずうっと鳴き続けてあった。
 まぁここで猫は「不浄」と、こうおっ社るですけれども、もうとにっかくもう、気色が悪うして堪えんと言う訳なんです。ね。例えばならそう言う風にして、もうそのそう言う様な事が、横から入って来る様な場合、それ自分の心でスッとこう払う。払う事が出来れる。また人間ですから自分でどういう、まぁその不浄な事を致しましてもです、ね、それ不浄な不浄な事だと思って、心を自分の心で払えれるというのですか。
 だからね、そのう「はぁ今日のご祈念は、もうずうっと猫が鳴いてから、もうどうも気持ちが悪い。どうもさっぱりしないご祈念であった」と、いうことになれば、例えばもう、次のおかげが頂かれないです、そういう心では。ね。けどもそん時に、私その心をです、ぱっとこう何かそのう霧が晴れるようにです、そう言う様な気持ちの悪いと思う様な心を、払えれるなにものかがあったらですね、これはもう次にはおかげが受けられる場というものが、もう自分の心の中に、出来ておることになるのですから。ね。
 ならそういう時に、ただ「神様相済いません、相済いません」ばかり言うて、お詫びだけじゃおかげにならんと言う事ですよね。例えばんなら私の、まぁこれはお道では申しませんけれども、黒不浄とか赤不浄とかとこう申します。ね。先日でした。あの三日目にお悔やみに行くとお悔みを、また受け戻されると言った様なその迷信を言うんですね。ですからそういう例えば迷信でも、それが自分の事になると、中々払えないですよね。だから、もう出来るだけ三日に、お悔やみば言わんごたるふうにせんならん。
 けれどもんならいよいよ、例えば私この頃、丁度三日目が岸先生とこのお葬式でしたから、あのうやらして頂いたんですが、会えばどうしても言わなければならんのですもん。ね。だからこれを、やはり神経を病んだらです、ね、あのう結局ほんとに、お悔やみ言い返されなければ鳴らん様な事が、起こらんとも限らん。けどもそういう時にです、私の心ん中にパッとそれを、そのう払えるなにものかがあったわけです。
 そこんところが、おかげを受けるのも受けないのもわが心であり、自分の心一つで不浄を払う事もありゃ、又それを受ける事もあると仰るのですから、お互いがこの払う心というものを、絶えず頂いとかなければならない。その事を私今晩頂いてから、その払う心とはどういう心かというと、私そのことを頂いておったんですけど、ちょっと度忘れしました。とにかくですね、そういう自分の心ん中に不浄、不浄と思う様なものが掛って来た時に、それを払う心は、勿論この生き生きとした、喜びの心ですけれどね。
 ですからその自分の心ん中に、その生き生きとした喜びの心がないとです、結局不浄を不浄と受けなければならん。そすともうその不浄で受けると払う事の出来ない、いわゆるそれを払う事が出来なければその不浄心によって犯される。わが心で払う事もあれば犯す事もあると。だからそこにそこには例えば猫なら猫というその、ま是を不浄物と致しますなら、不浄でもです自分の心でそれを、その不浄でないものに払う事が出来るのですから、それを猫なら猫に向けたら、もうおかげの受けられない心になるのです。
 大事なことでしょうが。ですからそういう心をです、生き生きとしたその喜びをもって、さっとこう入れれるだけの、私は力と同時に、そういう生き生きとした喜びの心というものを、私共の心ん中に頂いておかなければなりません。その生き生きとした喜びの心というのをですね、私特別のあれであのう頂いた、漢字で頂いたんですけども、ちょっと今忘れましたから、後から思い出してお伝え致しましょうけれども。とにかくそのう「不浄、汚れはわが心で払う事もあれば、犯す事もある」という。
 と言う事は、「おかげは和賀心と言う事と同じ事です。ね。自分の心次第でそれが不浄にもなる。不浄と言う事は、成就しないと言う事にもなる。又は成就すると言う事にもなるのですから。生き生きとした、このいわゆる和らぎ賀ぶ心というものを、絶えず頂いておかなければならん事は勿論ですけれど。そういう心をと私忘れましたがね。最近私は例えば、あのうお広間に猫なんか出て参りましたら、もう私はそれこそれを不浄としてから、もう心ん中にやかましかったんですね。
 もう早くの中に、猫を追い出さなければ、もう何か気持ちが悪かったんですけれども、この頃では段々私の、いわば喜びの心というものが強うなる。しかもそれをこう、そういうのがあってもそれを、不浄として受けんで済むだけのおかげの頂けれる心として、頂けれるように段々この頃なっていきよることを、自分で感じるんですけどね。どういう、そういうこのう、犯すことも或は払うこともある。その払う心を頂かしてもらわなければならんと思うですね。
   どうぞ。